聖徳太子ゆかりの史跡が多い太子町の観光案内です。
太子町には日本最古の官道「竹内街道」や万葉集に詠まれた「二上山」「王陵の谷」、古墳群など、飛鳥時代を中心とした史跡名所が数多く残ります。
ここでは特に聖徳太子と縁の深い史跡を中心に紹介します。
叡福寺参拝とともに足を運んでみてはいかがでしょう。
聖徳太子ゆかりの天皇陵4基に聖徳太子御陵を加えた5つの御陵の総称を、
それぞれの位置を結んだ様子が梅の花の形に似ていることから梅鉢御陵と呼んでいます。
叡福寺の北にある径50mの円墳。 内部は切石造りの横穴式石室に、奥に太子の母、穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后の石棺、手前に聖徳太子と妃の膳部大郎女(かしわべのおおいらつめ)の漆塗りのお棺をおいた二つの棺台が安置されていることから、三骨一廟と呼ばれています。 後に弘法大師をはじめ多くの高僧が廟内で修業したと伝えられ、我国仏教の聖地としても重要な位置を占めます。
天皇陵としてはトップクラスの1辺100mの方形墳で、周囲に空濠をもち、その規模・構造は飛鳥の石舞台古墳と似ています。
竹内街道沿いに造られた円墳で、「うぐいすの陵」の名称で枕草子にも紹介されています。 大和高松塚から出土したものと同じ海獣葡萄鏡が出土しています。
太子町に初めて造られた天皇陵で、全長113mの前方後円墳です。 敏達天皇と生母石姫皇后の合葬陵と伝えられています。
1辺60mの方形墳で、最初の女帝である推古天皇と、その子竹田皇子の合葬陵と言われています。
推古天皇陵の南東200mにある双方墳というめずらしい形の古墳で、連続した2つの方墳にはほぼ同形同大の横穴式石室に家型石棺が納められています。 このことから地元には昔から二子塚こそ真の推古天皇と竹田皇子の合葬墳という伝えも残っています。
小野妹子は推古天皇の時代に遣隋使として、現中国にあった隋という国に派遣された人物です。
太子の死後、守り本尊の如意輪観音の守護を託され、坊を建て、朝夕に仏前に花を供えたのが池坊流の始まりと言われています。
この妹子の墓が、科長神社南側の小高い丘の上にある小さな塚でるあと、古くから伝えられてます。