生まれながらに聡明な聖徳太子は、父の死や内乱を乗り越え、推古天皇の摂政に就任。
仏教思想を基本とする愛民治国の政治を行いました。
叡福寺所蔵、大正時代に活躍した小早川好古画伯の作品とともに、太子の生涯を紹介します。
聖徳太子は敏達天皇の3年(574年)、飛鳥の地に誕生。 父はのちの用明天皇、母は父の異母妹、蘇我一族の穴穂部間人皇女です。皇女が宮中を散歩中、厩戸の前で太子を出産したことから厩戸皇子と呼ばれました。 「日本書紀」には、別名を豊耳聡・聖徳・豊聡耳・法大王・法主王などと記されています。 太子2歳の2月15日、ちょうど釈尊が入滅された仏涅槃の日、夜明け前に目覚めた太子は、東の方に向かい小さな手を合わせ、「南無仏、南無仏」と唱えられたといいます。
太子13歳の時、父・用明天皇が即位され、蘇我馬子の要請で天皇は仏教帰依を表明します。
これにより非崇仏派の物部氏との対立が表面化し始めました。
用明天皇は在位2年で急病死。皇位の継承をめぐって、ついに蘇我氏と物部氏との間に戦争が始まりました。
戦いの火蓋が切られたのは太子14歳の時でした。始めは物部氏が優勢でしたが、太子が護世四天王の像を作り、頭にいただいて馬子とともに守屋の本拠地を攻め、勝利に導きました。しかし、母方の叔父3人を相次いで失うという悲劇も経験されました。
崇峻天皇が暗殺されたあと、敏達天皇の后であった豊御食炊屋(とよみけかしきや・料理の上手な姫)姫が、女性初の天皇として即位しました。 太子の父方の伯母に当たる推古天皇は当時33歳、20歳になっていた太子は蘇我馬子と推古天皇の厚い信頼によって摂政となり、仏法興隆、氏族間の協調、大陸との交流など、さまざまな政治課題を果たしていきます。
太子が日本初の摂政として初めに行われたのは、仏・法・僧の三宝を興隆することでした。 これは天皇の名において発せられ、大陸文化の積極的な受容ともなり、太子の師となる高句麗の慧慈、百済僧・慧聡等が来日しました。
太子は、仏法の大乗思想を中核にすえ、道・法家・儒教思想を採り入れ、愛民治国の政治を行いました。 推古天皇11年(603年)、冠位十二階制を布告したのに続き、同12年(604年)十七条憲法を制定しました。太子31歳の時です。
太子は自ら一乗(全ての衆生を一つの乗り物に乗せて悟りへ導く)の教えを説く三経(勝鬘経・結摩経・法華経)の注釈をされました。 推古天皇のためには「勝鬘経」を講賛、播磨の水田百町を賜り、これを斑鳩寺(法隆寺)に納められました。
推古13年(605年)、斑鳩宮が完成し、続いて15年には斑鳩寺も竣工しました。 金堂の東の間には、太子が父・用明天皇の病平癒に際して発願された薬師如来像も20年ぶり完成、太子は光背裏に造像の銘を刻まれています。
推古8年(600年)につづき、15年には小野妹子を大使とする第二遣隋使を派遣しました。 太子は隋への国書で「日出ずる處の天子、書を日没する處の天子に致す、恙なきや」と対等の外交姿勢を示しました。 隋の皇帝・煬帝もこれに応え、日本初の外交はこうして始まりました。
伝説によると太子は甲斐国(山梨県)から献上された黒駒に乘って雲の中を走り、政治が公平に行われるよう遠国での訴えに心を配っていました。 27歳のある日、天上を東に駆けて富士山頂に達した時、磯長の地を望んでここを廟地に選定されました。これが叡福寺の起源です。
太子40歳の12月、片岡山への遊行の際、路傍の飢人に食物とともに自らの衣を脱いで与えられました。 しかし旅人は亡くなり墓に葬られました。数日後行ってみると飢人の屍はなく、衣だけが残されていました。太子の飢人にかけられた思いやりが御仏に通じた一例とされています。
推古30年(622年)の旧暦2月22日(太陽暦4月11日)、太子は病で薨去されました。御年49歳。
日月は輝きを失い、人々は嘆き悲しんで、太子と前日に亡くなられた妃・膳部大郎女との葬送の列が、斑鳩から磯長に続くのを見送りました。
太子廟には、前年に亡くなられた母后に続いて太子と妃の二体も埋葬され、三骨一廟となりました。
太子には妃が四人いましたが、その一人、橘大女王は、天国に行った太子を想像し「天寿国曼荼羅繍帳」を作成しました。
太子が亡くなられた後も、空海、親鸞、日蓮を始めとして多くの聖人が太子廟を訪れました。
中でも親鸞聖人の生涯は太子の信仰とともにありました。29歳の春、修行に行き詰って苦悶していたところ、太子が救世観音となって現れ、真実の道へと導いてくださいました。