聖徳太子が制定された「十七条憲法」は、今日でもなお新鮮さを失いません。とくに、第一条で強調する「和」の精神は、世界が今、最も必要としている思想です。
わが国最初の成文憲法である「十七条憲法」は、推古天皇12年(604年)、聖徳太子によって制定されました。
『日本書紀』には、同年4月3日の項に「皇太子親(みずか)ら肇(はじ)めて憲法十七条憲法を作りたもう」と、太子自らが起草したことを述べています。太子31歳の時です。
当時のわが国は、外国から仏教文化や儒教文化が渡来し、既存の神道思想(祖先崇拝)との文化摩擦や、氏族間の対立が激化する多難な時代でした。
そうした中にあって、聖徳太子は、まず第一条で、「和」の貴さを述べ、「和」による対立の融和・超克を説きました。原文は、四六文(4文字と6文字を基本とする中国古代の美文)形式の漢文だが、諄々とさとすその語調は、時代を超えて、読む者の心に迫るものがあります。
「お前たちは、なぜ分からないのか。無益な対立をやめ、和をもって議論しあえば、物事の道理は、互いに分かり合えるのではないか」と太子は、人々に語りかけているように思える。
そこには“和国建設”、すなわち「和」を基本として統一国家を建設しようとする、太子の理想と悲願が込められています。
第二条で太子は、仏教を敬うべきことを説き、仏教による国民教化の道を指し示します。仏教は「四生(ししょう)の終帰(よりどころ)、万国の極宗(おおむね)」(生きとし生けるものの究極のよりどころ、世界万国に通じる究極普遍の教え)であるとし、人間の魂の覚醒を、仏教に求める姿勢を明確にしています。
これによって、大乗仏教は、わが国の国土にしっかりと根を下ろし、時代とともに発展をとげました。聖徳太子が日本仏教の祖師とされるゆえんはここにあります。
大乗仏教では、おのれを捨てて他人のために善を施す「利他行」が強調される。太子は、世俗を捨てて解脱を求める修行者の方向ではなく、社会組織や国家の中で仏教の理想を実現しようという道を選びました。
その精神に基づき、太子は第五条以下の条文で、政治家や役人のあるべき姿について具体的に説いています。
「役人達は飲み食いの貪りをやめ、物質的な欲を捨てて、人民の訴訟を明白に裁かなければならない。・・・(ところが)最近の役人達は、私利私欲を図るのが当たり前となり、賄賂を取って当事者の言い分を聞き、裁きを行っている」(第五条)。
「役人」という言葉を「政治家」に置きかえてみると、これはまるで最近のわが国の世相を戒めているように聞こえます。
政治家や役人は、まず人格者であるべきであり、私心や嫉妬心を捨てて、公すなわち社会に奉仕するのが道である、政治の公正も裁判の公明正大も、それによって初めて実現される、と太子は考えたのです。
太子が考えた十七条憲法は、約1400年を経た今日でも、新鮮そのものに見えます。なかでも、太子が第一条で強調した「和」の精神は、冷戦構造崩壊後、かえって宗教・民族間の対立が激化の様相を呈している今日、世界が最も必要としている思想ではないでしょうか。