叡福寺は聖徳太子孝養(十六歳)像を祀る聖霊殿(重文)をはじめ、七堂伽藍と寺宝を多数有します。
直径54・3m、高さ7.2mの円墳。横穴式石室で、太子と母后・穴穂部間人皇女、妃・膳部大郎女の三体を合葬した三骨一廟です。
慶長2年(1597年)、伊藤加賀守秀盛の再建。御本尊は阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩の三尊です。 弘法大師御参籠の時、九十九夜にわたって御廟の中から音楽が聞こえ、三尊がご来迎されたといいます。 現在は信徒の永代供養を営んでいます。
六角形の建物で、多くの写経典類が納められています。
明治45年(1912年)建立。本尊は親鸞聖人の坐像です。 聖人が88歳で御参籠の折、自らこの像を刻んで遺されたといいます。
本尊の弘法大師像(60歳)は、自ら三鈷をもって刻まれたと伝えられます。 胎内には真言八祖相承の仏舎利が納められています。
本尊は阿弥陀如来で、脇侍は観音・勢至菩薩。善光寺48箇所中の第13番札所。昔から宗派を問わず納骨される方が多いです。
天正年間、当国高屋城が陥落した際の古材を用いて建てられました。
客殿の東側の庭です。昭和3年(1928年)、聖徳太子奉賛会の総裁・久邇宮邦彦殿下が命名されました。遠くに望む二上山、葛城山、金剛山を借景としています。
天正2年(1574年)の兵火で焼かれ、慶長年間に再建されました。腐朽のため昭和33年(1958年)に再々建築されています。左右に金剛力士を安置しています。
本尊は石仏の阿弥陀如来坐像(府指定有形文化財彫刻)。平安末期か鎌倉初期の作と言われています。
本尊は大日如来像。聖徳太子に仕えていた調子麻呂が、太子の葬送が終わったのちも長く留って太子の菩提を弔った場所に建てられました。
承応元年(1652年)の再建。本尊は東面に釈迦・文殊・普賢の三尊像、西面に金剛界の大日如来を安置し、4本の柱には四天王の像が描かれています。 木割りは太目で近世では正統派に属する塔です。
当寺所蔵の寺宝を展示しています。
土・日・祝日開館 9:30~16:30 (1月と2月は休館)
(平日は団体予約のお客様のみ)
享保17年(1732年)に再建。本尊は高さ90mの如意輪観音の坐像。 聖徳太子の本地が観世音菩薩であるという平安朝以来の信仰に基づいています。 脇侍は不動明王と愛染明王です。
太子堂とも呼ばれ、聖徳太子16歳植髪等身像と南無仏太子2歳像が祀られています。文治3年(1187年)後鳥羽天皇が宮中にあった16歳像を下賜されました。 建築様式は桃山末期の特徴を示しています。
聖徳太子摂政像が祀られています。 元禄元年(1688年)、当国の丹南藩主・高木主水正が、回廊・二天門・鐘楼などと一緒に寄進したことが棟札からわかります。
叡福寺所蔵の貴重な彫刻、書画、古文書などを展示しています。
展示物は不定期で入れ替わります。
開館日時: 土・日・祝日 (1月と2月は休館) 9:30~16:30
(平日は団体予約のお客様のみ)
大人300円・小学生150円
天喜2年(1054年)、太子廟近辺から出土たと伝承される白色大理石の霊宝です。
慶長2年(1597年)に再建された浄土堂に安置されています。
平安時代後期の作。右足を前に左手に宝珠、右手に施願印の像で、高さ94cmの一本造りです。
奈良時代後期(776年頃)の墓誌。常陸国に赴任中に死去した高屋連のことが37文字に記されています。(縦26cm×横18cm×厚さ12cm)
天正2年(1574年)、織田信長の兵火で灰燼に帰しましたが、豊臣秀頼により復興されます。慶長8年(1603年)には聖霊殿も再興されました。
志南香苑の一角にあり、「よりとも石とう」と刻まれています。鎌倉時代の特徴が色濃くみられます。
平安時代作と推定。檜材の一木彫で彫眼。像高153.5cm。光背、台座を含めると216cmの堂々たる像です。