尾長三つ巴 聖徳太子御廟所上之太子 叡福寺

叡福寺と聖徳太子

叡福寺は聖徳太子を慕う人々のかけがえのない聖地であり、
空海、親鸞、叡尊、良忍、一遍、日蓮、證空など高僧の参籠の地でもありました。


叡福寺の由来と太子信仰・名僧たち

叡福寺境内古地図

聖徳太子の御廟を守る叡福寺

聖徳太子自らが廟地として選定された磯長廟は、奈良県から二上山を越えて河内に入った叡福寺境内の北側にあります。 叡福寺は推古天皇30年(622年)、先に葬られた太子の母の眠る御廟に、太子と妃の大郎女が合葬された折、推古天皇より方六町の地を賜り、霊廟守護のために僧坊十烟(墓守の家10軒)を置いたのが始まりと言われています。
太子は実際に農業奨励のために、大和・河内・山城の地に灌漑用の池や水路を作り、国ごとに朝廷直轄の穀物貯蔵庫のある農園を置きました。 また社会事業として、四天王寺に悲田院(貧窮孤独者の救護院)、施薬院(医療施設)、療病院(病院)、敬田院(仏法僧院)などを創設されました。

太子信仰の時代背景

こうした太子の愛民治国の姿勢は、生前から人々の間に「太子信仰」を生みました。 奈良時代に入ると、本地垂迹説(神仏習合思想の発達したもの)の広がりとともに、本格的な太子信仰が始まりました。 太子は、中国天台宗第二祖で般若思想の実践者でもある慧思禅師の生まれ変わりであるともいわれ、最澄はこれを固く信じ、永く比叡山は太子信仰の伝統を守りました。 平安中期には「聖徳太子伝暦」が書かれ、太子が超人的資質を備えていたという伝説や、太子を救世観音の生まれ変わりであるとする観音信仰が定着しました。
鎌倉時代は太子信仰が最も盛んになった時期で、太子二歳像や孝養太子像などが作られ、親鸞聖人は「聖徳太子和讃」を作り、太子を「和国の教主」と讃えています。 この時期から室町時代にかけては、太子信仰の信者団体である太子講ができ、講の集会で読まれる「聖徳太子講式」や、各種の聖徳太子絵伝類が盛んに制作されました。

名僧たちの叡福寺参籠

時代背景の中で、太子の御廟がある叡福寺は、太子建立の四天王寺や、下の太子(大聖勝軍寺)、中の太子(野中寺)とともに、太子信仰の霊場として栄えました。
なかでも叡福寺が脚光を浴びたのは、平安時代中期の天喜2年(1054年)、「太子御記文」が太子廟付近から出土し、続いて「太子廟窟偈」が発見されたことによります。 「太子御記文」には「此の記文出現するや、その時、国王、大臣寺塔を発起して仏法を願求せん」と書かれており、「太子廟窟偈」には三骨一廟の思想が書かれていました。
この偈文は後世の宗教家に大きな影響を与え、とりわけ親鸞聖人は「迷える風愚範宴に、求通のみちを教えたまえ」とこの廟窟に祈願したと言われています。 御廟の横にある見真大師堂はこの時の参籠記念と言われます。 この堂内には親鸞聖人が88歳で最後の参籠をしたとき、自ら刻んだと伝えられる木像が安置されています。
また、時宗の開祖である一遍上人も、弟子の絵師でもある法眼円伊を伴って37日間参籠し、日中の礼讃を勤行し、円伊に「太子廟参籠の図」を描かせています。
日蓮上人にとっては、聖徳太子と伝教大師が「法華経」弘通の先達でありました。 上人は太子廟に参籠して7日7晩の満願の日の深更、太子の示現にあずかり、深い感謝とともに「聖徳太子と申せし人、漢土へ使をつかわして法華経を取り寄せ参らせ、日本国に弘通し給いき」と書いています。
叡福寺には金堂に祀られている不動明王、愛染明王とともに、弘法大師が御廟の周囲に一夜で築こうとして未完成に終わった結界石があります。
弘法大師もまた太子廟参籠(弘仁元年・810年)の折、阿弥陀三尊を感得され、第三発光地の境地に至られたといい、境内には弘法大師堂があります。
その他法然聖人の高弟や、代々の天皇など、聖徳太子を聖者として仰ぐ人々の参籠は営々と続き、現代に入っても信仰や研究の対象として多くの人々の心を惹きつけています。




聖徳太子廟窟偶

廟窟偶碑
  • 大慈大悲本誓願   愍念衆生如一子
    是故方便従西方   誕生片州興正法
    我身救世観世音   定慧契女大勢至
    生育我身大悲母   西方教主弥陀尊
    真如真実本一体   一体現三同一身
    辺域化縁亦己盡   還帰西方我浄土
    為度末世諸衆生   父母所生血肉身
    遺留勝地此廟窟   三骨一廟三尊位
    過去七佛法輪處   大乗相応功徳地
    一度参詣離悪趣   決定往生極楽界